2008年 06月 23日
マニフェスト評価の正しい見方
そもそもこのような政治色の濃いものが、市のホームページに堂々と掲載されていること自体どうなのかと首を傾げたくなるのだが、この内容もまた、市長の市政運営同様、突っ込みどころが満載です。
評価について、数値などで分析できるものなら分かりやすいのだが、数値化できないものは評価者の主観で評価されることになるのだろうか。
例えば、「時代を担う子どもたちを育てる教育費は削減しません。」
このような項目は、前年の予算や決算と比較して達成出来ているかどうかは容易に判断できる。
一方で、
①「三木と吉川のよさをお互いが尊重し、認め合うまちづくりを推進します。」
②「行政のムダを徹底して排除し、小さな市役所をめざします。」
③「助役·収入役は置かず、部の数は少なくし、部長には民間人も登用します。」
といった項目などは、いずれも「○···完了」となっているのだが、
何をもって「完了」と評価したのか、私にはその理由がわからないのである。
例えば、
①などの項目は、本当にそのようなまちづくりが推進されたかどうかについては市民が評価する内容だと思うのである。
もしかしたら市民にとっては「完了」には程遠い状況なのかもしれない。
客観的に評価することが求められるのではないのか。
②などの項目は、掲げられている内容の判断基準が曖昧すぎると思うのである。
どこまで取り組めば「ムダ」が排除されたといえるのか。
もともとのはっきりした基準がないから、本当に排除できたかどうかは疑わしい。
「小さな市役所」もどれくらいの規模で「小さな市役所」といえるのかが分からない。
③などの項目は、これまでもこのブログで再三、主張してきたが、
単に「助役や収入役」を置かなかったという事実に対する評価だけでいいのかと思うのである。
「完了」という評価は、設置したかしなかったかという事実に対する評価なのだろうが、
本来は、その取組が市政運営にどう影響したのか、不都合は生じなかったのか、そのような分析を踏まえた上での評価でなければ意味がないと思うのである。
また、民間部長を途中で登用しなくなったことに対する評価はどうなるのか。
一つ一つ指摘すればキリがないので、ここでは個々の項目に言及することは避けるが、
いずれにしても、ここで評価されている内容と市民が受け取る印象とはかなりの差があるように感じるのは私だけだろうか。
マニフェストに掲げた項目だけをもって「まちづくり」の評価ができるほど、「まちづくり」は単純ではない。
正直、このような評価結果に一喜一憂することはナンセンスであると思うし、このようなナンセンスなことの進行管理に貴重な時間と税金を費やすことは即刻やめてほしいものである。
そう考えると、少なくとも、「行政のムダを徹底して排除し、小さな市役所をめざします。」の項目は、「〇」にはならないはずである。