どうぶつのつぶや記

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政治家は、まずは自分の頭で考え、自分の言葉で語ることからはじめるべし

自分の住むまちで進められようとしている政策や事業が、今本当に必要なものなのか、一体どれぐらいの投資効果があるのかということなどは、なかなかわからないものです。
広報紙を使った都合のいい内容のみを流す情報操作は頻繁にされるけれども、肝心なことはほとんど明らかにされないまま大きな事業が次から次へと私たちの知らない間に進められようとしている現状を見ると、正直不安になってきます。
今般の国の経済対策に伴い実施される事業もまた、地元経済を活性化させる事業?という大義名分のもと、旧三木駅跡地の整備費、旧玉置家の用地購入費といった予算が今回の6月議会に提案されています。
しかしながら、これらは今年度だけで事業が完結するというものでもなく、複数年にわたって多額の費用負担、財政出動が伴う大型事業であるはずです。
「財政危機宣言」を発した極めて異例の状況にある自治体が、世界的な経済危機の中で打ち出された国の政策の主旨をよく分かった上で、将来の三木市にどれだけの経済効果をもたらすと判断して事業を採択しようとしているのか、本当にそれに値する中身なのかどうかと考えてしまいます。


なぜこんなことを突然言い出したのかというと、「三条市長日記」のこんな記事を読んだからです。
三木市と同じ「金物」という地場産業を持つ三条市の市長さんは、今回の国からの経済対策の意味を自分のまちの特徴や課題に置き換え、分析し、自分の言葉でこんな風に考えを議会や市民にわかりやすく伝えておられます。
主な部分を、そのまま抜粋させていただきますが、

『時間が勝負の〝超短期的な措置〟とは違い、中期的展望に立った経済対策は必然的に事業規模も大きく、後年度への財政の影響もしっかりと見通す必要があり、各分野にまたがっている経済危機対策に係る補助メニューを紐解き、三条市にとって効率のよい、国の補助金を最大限活用した対策を作りこんでいく必要があると思っています。
そのためには、時間が必要です。とても、6月定例会には、間に合いませんでした。
次の9月定例会を視野に入れながら、〝パズル〟を組み立ててまいりたいと思っております。
しかし、無節操なパズルは禁物です。
次の中期対策のキーワードは〝産業(+観光)〟に加え、〝教育〟と〝環境〟と考えています。
まだまだ、経済対策と格闘する毎日が続きそうです!!』



ふむ、三木市でも、多くの政治家がいらっしゃいますが、果たして、三条市長さんが考えていらっしゃるようなことをきちんと理解した上で、今の三木市にとって本当に必要な政策や事業を考えておられるのかどうか。
疑うわけではないですが、どうも安易に判断しているんじゃないの?と感じずにはおれません。
「国の補助がもらえるから、有利な市債を借りれるから・・・」
単にそれだけの理由で事業を前倒しして実施するというだけのものなら、この際、三条市長さんを見習い、もう一度じっくり、後年度への財政の影響などもしっかりと見通してから採択するべきかどうかを決められるほうが良いのではないかと思います。
正直、私自身は、これまで「借金」が完全悪だとこれっぽっちも思ったことはありません。
ただ、今の市長は、前回の選挙の際、借金を「いけないもの」=「悪」と仕立て上げ、そのような借金に依存する当時の市政運営を完膚なきまでに痛烈に批判してきたわけです。
その結果、いわば彼の「借金」に関する公約が支持され、当選に至った経緯を考えると、当時の彼の考え方と、今の考え方にはかなりのズレといいますか、ギャップが生じてきていると思わざるを得ないのです。
そして何より、全国でただ一つの『財政危機宣言』を発した自治体なわけですから、その状況から見ても、4年前の選挙時よりも、財政状況は悪化の一途を辿っているのです。


そんな中、通常よりも有利な市債を充てることができるからといっても借金には違いないわけで、後々、交付税で見てくれるといっても、国の財政事情も考えると、本当にあてにできる保証はどこにもないのです。
およそ4年前、借金に依存している財政体質を痛烈に批判していた人が、今、まさに当時のやり方と全く同じ手法で借金を膨らませようとしているわけです。
時代の背景が、当時はバブルによる景気対策、今は世界的な経済不況による景気対策の違いだけでやっていることも、国が地方を動かす口実(『あとあと、交付税で面倒を見ますよ』というような甘い口約束)もまた同じなのです。


三条市長と三木市長。
やはり、政治の世界も企業と同様、最終的には、「人」のようですね。
まぁ、市長に限らず、議員も政治家の分類になるわけですから、市長の言われるまま、何の疑問も持たず、ズルズルと政策をスルーするだけの役割しか果たせないようでは、話になりません。
政治家の質といいますか、レベルによって、政策を考えるスタンス、スタートラインの位置が全く違ってきます。
結果、おのずと到達するゴール(まちづくりの姿)も違ってくるということです。
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by kkamoike | 2009-06-22 19:20 | みっきぃふるさとふれあい公園 | Comments(1)

「民意」の中身を見極めることが大事

一連の病院統合に向けた重要事項の決定、前回の補正予算での事業決定の経緯などを見ていると、
「あなたたち素人の市民は知らなくてもいいのですよ。決まったことにただ従っていればいいだけですから」
と言われているようにも感じます。


一方で、話がこじれて政策が暗礁に乗り上げようものなら、自ら有利なアンケートを実施して、答を誘導したものを「民意」と見做し、政策を強引に推し進めようとします。


本当は、「民意」なんて糞くらえと思っているくせに、都合のいい時だけ「民意」を持ち出し、あたかも市民の意見に耳を傾ける姿勢を示しているようにも受け取れます。

「民意」など最初から聞く気持ちがないなら、最初からそう言えばいいのにとも思いますが、市長は時に「民意」を必要以上に持ち出すことがあります。
もちろん、「民意」とは、支持者の声でも、ある特定の市民の意見でも、自ら都合のいいようにでっちあげたアンケートによる結果でもないのですが、一連の対応を見ていると、どうも、私には「民意を笠に着た暴政」としか思えないわけです。

前政権の政治手法を批判し、「政治を市民の手に取り戻す」というようなスローガンのもと選挙戦を制し、今の市政が推し進められてきたと想像しますが、そこには、その政策が必要か必要でないかとか、有益か害があるのかなどの論点以上にモノを言っているのが「民意」であるように思えてなりません。


「必要な政策かどうか」ではなく「民意があるかどうか(=市民の支持を得た市長の政策·判断なのかどうか)」が全ての基準になっているとすれば、私たち市民は、その「民意」の中味を厳しく問い、見極めていく必要があるといえます。
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by kkamoike | 2009-06-17 20:25 | Comments(0)

「市民が望んでいることだから」、「市民のためだと判断したから」・・・。 だから?

今回の6月議会の一般質問の内容は、FMで放送されていたものを家族に録音してもらい、気になる議員の質問のみ選んで聞きました。
三木市も、開かれた議会を目指すのであれば、
武雄市に倣い、議会のやり取りをYou Tube で流す試みでもされたらどうでしょうか?
そうすれば、昼間働いている私たちのような世代はもちろん、子どもからお年寄りまで、職業などを問わず、好きな時間に、聞きたい政治家の発言をチョイスして聞くこともできると思います。ぜひご検討をお願いします。


今回の議会もそうでしたが、本来、議論されなければならない内容がきちんと議論されない背景には、ある意味、議会の様子がオープンにされていない状況に、政治家、特に市長自身が胡坐をかいてしまっているからではないかとあらためて感じました。
私が胡坐をかいていると感じた部分を何点かピックアップしますと、
聞かれていることに対して、誠意を持って応えようとする気がない。
相手の言い分に耳を傾け、質問している相手を説得させる気がない。
自分の主張、言い分だけを繰り返し、述べるだけ。
自分に都合の悪い質問にはまともに答えない。
挙句の果てに、相手を馬鹿にしたことを平気で言う。などなど
そのような意味から、正直、中身のない一般質問であったと評価しています。


ところで、今回の議会で、繰り返し、市長が述べた「市民主権」という言葉に則った、
「市民が望んでいることだから」、「市民のためだと判断したから」・・・
という類の発言の数々、黒嶋さんのブログに掲載されている病院統合に関する市長の答弁にも随所に出てきますが、実は、これほど他人任せで無責任な発言はありません。
これらの言葉には、仮に事業が失敗した場合、「市民の皆さんが望んだことですからしょうがないですよ。」という言葉で片付けられてしまう、まさに裏返しの意味が含まれていることがおわかりにならないのでしょうか?
そこには、選挙で選ばれた市長という重責を担う覚悟や責任感といったものは全く見られません。
市長は「政治生命に賭けて」というような発言もされたようですが、一体、市長の考える「政治生命を賭ける」とは、何をどうすることなのか、機会があれば一度議員さんから尋ねられてはどうでしょうか。


また、仮に、為政者の中に、市民の希望に応えようとする気持ちがあったとしても、「市民が望んでいること」と「市民のためになること」は必ずしも一致するとは限りません。
市民の望み通りの政治が行われたからと言って、それで市民が幸せになるとは限らないのです。
小泉改革が良い例です。(刷り込まれたものであるにしても)それは間違いなく、国民の望みでしたが、今もなお、国民の生活は悪化を続けており、その負の遺産は小泉の後継者さえ苦しめる有様です。小泉内閣による医療制度改革などは、その最たるものといえるでしょう。
もっと身近なわかりやすい例でいえば、図書館などもそうです。
流行りの本をタダで手元に置きたい、そんな市民の望みに答える一方で、市民の需要に乏しい専門書を廃棄する傾向にある公立図書館が出てきているといいます。
そのような姿勢に何の疑いも抱かないとしたら、あまりにもバランスを欠いた政策判断ではないかと私などは考えるわけですが、それでもなお、目先の歓心を買うことを選び、流行りの本をタダで手元に置き続けることこそが「市民の目線に立った」運営だと居直ることも同じようなことだと思います。


政治家が政策を判断する際に「市民が望んでいるかのどうか」という客観的な判断はもちろん必要です。
しかし、単にそれだけをもって最終的な意思決定の要素にしてしまうこと、さらには、決断の理由を聞く相手に対して、そのようなことしか理由として述べない姿勢、述べられないのは、あまりにも無責任な態度であり、政治家としての責任を果たしていないばかりか、最終的に失敗したときの責任を免れるための逃げ道をあらかじめ作っているようなものなのです。
「市民が・・・」という理由では、説明責任を果たしているとは言えないということです。
肝心なのは、自分がどう判断して、決断したかということです。
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by kkamoike | 2009-06-12 19:23 | 三木市政 | Comments(2)

政策の判断はドライでシンプルに、市民への説明はウエットできめ細かく

市民を路頭に迷わさないように、市民にとって最も安全な策を選択し、その実現に向けて関係者に理解を求める努力を怠らないことこそが為政者としての役割だと思います。
今、全国の自治体病院を揺るがしている経営危機問題ですが、これは何も三木市に限ったことではありません。
市民病院の経営が行き詰まり、身動きが取れなくなってしまう前に、何らかの手を打たなければならないという決断や選択を迫られるリーダーは全国各地に存在していると思われます。
しかし、その問題解決に向けた視点、アプローチの方法などは、リーダーによって大きく異なるようです。


あるリーダーは、
『病院だけでなく、市そのものが崩壊の危機に直面している。
だから、市全体の歳出を見直し、削減を図ることが必要である。
人件費カットができなければ、①市民病院が今年度から経営健全化病院に転落、②市民の皆様への負担がさらに拡大、③市が5年先に財政再生団体に転落、④他市との統合病院の実現が困難』といいます。

また、あるリーダーは
『市民病院自体が巨額な財政赤字を抱え、数年後には破産する可能性が極めて大きかった。市民病院の破綻が引き金となり、市全体の財政が回らなくなることから、しっかりした病院にお任せすることが、地域医療の維持向上につながると判断した。」といいます。


両者の言葉は、一見同じスタンスに基づいた主張のように見えるかもしれませんが、実は改革の方向性は180度異なります。


前者は、三木市長の改革についての考え方です。
何としてでも現状の病院の体制を維持しようとする意図が伺えます。
市全体で改革を実行しなければ、病院を守り続けるどころか市自体が破綻してしまうという論法です。そこには、たとえ病院経営において赤字が増え続けようとも、市が最後まで面倒を見つづける、病院の経営と市の経営は一心同体であることを前提としているようにも思えます。
しかし、この考え方は、問題の元凶となることに真正面から向き合い、自らメスを入れて根本的な解決を図ろうとするものではないと思います。
その一方で、職員の方たちの給与カットについては、並々ならぬ意欲を示されているようですが、私から言わせれば、単に手をつけやすいところから手をつけただけで、根本的な解決には結びつかない、何の努力も伴わない改革(改革といえるのかどうか大きな疑問がありますが、とりあえず「改革」と表現しておきましょう。)に終始しているだけだと言わざるを得ません。
三木市長の考え方は、見方を変えれば、市民病院も市全体も同じ重要度があるという認識の表れなのかもしれませんが、それは、言葉を換えれば、問題を解決する上での優先順位が決められない優柔不断なリーダーの典型であり、本当の危機に直面した際にはまず通用しない対応であると思います。


一方、後者は武雄市長の改革についての考え方です。
問題の本質に真正面から向き合い、その原因となっているものを根本から見直していこうとする姿勢が伺えます。
そこには、問題解決に向けた改革に着手する優先順位をはっきりとつけることはもとより、改革の対象をごっちゃにしない、極めてドライでシンプルな考え方に基づいた手法が示されています。
その上で、市長の考えを市民にも共有してもらうべく、市民へのウェットできめ細かな説明責任を果たそうとする市長の熱い想いが伝わってきます。


リーダーの考え方、決断、改革に向けた取り組みによっては、市民の将来の生活も180度変わる可能性もあり得るということです。
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by kkamoike | 2009-06-10 22:27 | リーダーの条件 | Comments(0)

50億円が意味するもの

昨日紹介した資料によると、平成20年度の三木市民病院では単年度収支で毎年20億円程度の赤字が発生しており、市からの支援額は、10億円にも上ると書かれてありました。


まずこの数字がどれぐらいのものなのかを考えなければなりません。
我々市民からすれば、この20億円近くの赤字を埋めるため、これから毎年、10億円ものお金を市の会計から支援をしていくというのは、一体どれぐらいの水準なのでしょうか。
他の公立病院と比べて多いのか少ないのかといった判断基準を持ち合わせていないので、今ひとつピンときませんが、同じく、昨日紹介した質疑応答の資料によると、(県内の神戸市を除く公立病院への支援の平均に置き直した場合)三木市では6.5億円程度になるとか···。
三木市民病院が市から受け取っている支援の額は、他の公立病院に比べて1.5倍近い額になります。
これとは別に、現在の病院を維持するために向こう5年間でさらに50億円の歳出カットを実施しようとしています。
つまり、この50億円規模の歳出削減は、現在の市民病院を維持するために行われるものですから、見方によっては病院に対する間接的な支援とも受け取れるわけです。
この考え方からすれば、これから向こう5年間、病院に支援する額は、なんと毎年10億+10億=20億円もの金額になります。


5年間で延べ(20億円×5年)100億円···。
この100億円という数字も、我々市民にはピンと来ない数字ですが、三木市の1年間の税収が大体、110億円ということですから、その規模の大きさがお分かりいただけるかと思います。
繰り返しになりますが、他の公立病院と同じ割合に置き直した場合の支援額が三木市の場合6.5億円となるということですので、6.5億円×5年=32.5億円が5年間に必要だと仮定しましょう。
その額を、三木市が今後5年間に充てることになる100億円から差し引いても、なお、67.5億円ものお金が他の公立病院よりも余計に充てられる計算になります。
これって、どうなんでしょうか?

ちなみに、人口8万人とした場合の1人当たりの支援額は、5年間で、4万円(32.5億円/8万人)) ⇒ 12.5万円(100億円/8万人)となり、
5年間の市民1人当たりの税負担に占める病院支援の割合は、6%  ⇒ 18%にも上ります。
実に、私たちが納める税金の5分の1程度が病院の支援に充てられる計算になります。
さらに、1日あたりの支援額は、178万円(6.5億円/365日)  ⇒ 548万円(20億円/365日)となります。(およそ3倍)

こんな考え方はおかしいとおっしゃる方は、ご指摘をお願いします。話がややこしすぎて考えれば考えるほど頭がこんがらがってきています。イマイチ自信が持てませんので···。(笑)


それはともかく、病院を今すぐ廃止しろとまでは言いませんが、せめて、他の公立病院と同じぐらいの水準の支援で経営が維持できるよう、身の丈にあった状況に抑えるには、一刻も早い、抜本的な規模の縮小、見直しを図る必要があると考えるのですが、そのような動きはほとんど見えてきません。
rfuruya2さんもおっしゃっておられましたが、これでは行政の「怠慢」のなにものでもありません。


ただし、この「50億円」の根拠ですが、『財政危機宣言』を発した当時の市からの支援見込額は15億円であり、上記の6.5億円を差し引いた残りのおよそ10億円が基礎となっていると思われます。
しかし、最終的には平成20年度の支援は、最新の資料によると10億円だったようですので、この額から6.5億円を差し引くと3.5億円、多く見積もっても4億円に減るわけで、5年で20億円の歳出カットで賄えるという計算になるはずなのですが···
私には、この「50億円」という数字がどうも独り歩きしてしまっているような気がしてならなりません。
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by kkamoike | 2009-06-09 23:27 | 三木市政 | Comments(2)

飾れば飾るほど自分(真実)を見失う

「今、立ち向かう三木のまちづくり」と題した資料が三木市のホームページに出ています。



その資料の冒頭には、「なぜ、財政危機なのか」という項目があり、小さな字で「病院経営の悪化」と書かれてあります。
「財政危機宣言」を出した背景については、宣言を発した当時の質疑応答の文書にも詳しく書かれてありますが、そもそも病院経営の悪化に端を発した財政危機であったはずなのに、いつの間にやら、財源を捻出するための一手段として掲げていた職員の方たちの給与カットが、訳のわからない民間企業との比較資料によって浮き彫りにされた揚げ句、公務員の厚遇の適正化こそが、三木市の財政を建て直す上での改革の本丸かの如く取り上げられ、問題の本質が巧にすり替えています。
素直に、「病院を建て直すために、職員の給与をカットすることで、病院の赤字分を補填したいのです。必要額は、概算で給与費全体の7%になります。」とだけ言えばわかりやすいものを、何の根拠かもわからない資料を持ち出し、色んなことをあれこれ詮索し、余計なことまで持ち出そうとするもんだから、私のような素人にまで突っ込まれてしまう、つじつまの合わない説明になるのです。


オンブズマン三木さんが取り上げておられる「1、2行議員」の発端となった会見のコメントも同じです。
議員の方たちが本当に1、2行のことしか発言していないのであれば、「アンケートで書いた内容しか発言しておられません。」とだけ言えばすむことを、回りくどい言い方をするから、後あと言い訳がますます苦しくなるのです。
言ってることにつじつまがあわないのは、真実を隠そうとする意図があるからです。


『飾れば飾るほど自分(真実)を見失う』という言葉があるそうです。
飾りすぎて「まちづくり」における真実や改革の方向性だけは見失わないようにお願いしたいものです。



それにしても冒頭で紹介した「今、立ち向かう三木のまちづくり」、次期選挙用マニフェストのようにも見えるのは私だけでしょうか。
「三木」ではなく「私」の間違いなのでは?とも感じてしまいました。


追伸
今回の記事、「雑感日記」さんが別の角度からの分析の中で早速取り上げてくださいました。
冷静な判断に基づくご意見だと思います。
ぜひご覧ください。
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by kkamoike | 2009-06-08 21:59 | 三木市政 | Comments(0)

給与カット、これも『手段』であり『目的』ではありません

前回の記事でこんなことを書きました。
(前回の記事の内容)
統合病院建設の総事業費130億円~200億円だそうです。
費用の面で合意した割には、かなりのドンブリ勘定といいますか、上下幅ありすぎるような気がしないでもないのですが、とても全国初の「財政危機宣言」を発した自治体とは思えないくらい大胆な行動です。
これでは、給与カットされる職員の方たちもたまったものではないでしょうね。
自分達の削減された給与によって捻出された財源が湯水の如く、しかも中身もしっかりと示されないまま使われるとあっては、モチベーションも下がるわけです。
我々市民にしてみても、病院は必要なものだからいくらかかってもしょうがないなどと悠長なことを言っている場合ではありません。


これに対し、
三木市民さんからこんなコメントをいただきました。
(三木市民さんからのコメント内容)
公務員の給与カットを比較にだすのは話が違うと思います。
折角の良い内容が···市民目線から遠のきます。

さらに、三木市民さんからのコメントに対し私の思いをこんなふうに述べさせていただきました。
(私のコメント内容)
三木市民さま
コメントをいただき、ありがとうございました。
病院統合(病院経営)の話に職員の方たちの給与カットを持ち出すのは筋違いではないかというご意見、確かに私自身も日頃からそのとおりだと思っていますし、このブログにも以前、その考えはおかしいと書いたことがあります。
にもかかわらず、今回、あえて給与カットを持ち出したのは、今回の財政危機宣言の発端が病院経営の失敗であり、その具体的な解決方法が、病院経営の抜本的な改革には踏み込むことなく、職員の方たちの給与カットのみに頼る安易な姿勢しか見せていないことに対する反論の意味も込めて、皮肉の意味も込めて書かせていただきました。
今回の記事でお感じになったことと同様、置き換えれば、市長のやっていることも、結果、筋違いのことをされていることとなり、支持率アップを狙った市民受けはあっても、市民目線とはならないのではないでしょうか。
少々ムキになってしまった感があり、大変失礼しましたが、これに懲りず、また率直な感想をどんどんとぶつけていただければありがたいです。
あらためて市民目線の記事となるよう心掛けてまいりますので、今後ともよろしくお願いします



コメントを書いた後、自分自身、少々投げやりといいますか、乱暴なイメージのコメントを、思いつくまま書いてしまったような気がしてずっと引っかかっていました。
それは、私自身の考え方がうまく整理できていなかったのが原因なのかもしれません。
···ということで、前置きが長くなりましたが、今回の記事の内容は、昨日からもやもやしていたものを少しでもすっきりさせるために、今、自分で思うことを、三木市民さんへの再度のコメントという意味も含めて書いてみたいと思います。

給与カットとは、
ある目的を達成するための、「財源配分」という手段の一つだと思っています。
それは、市長や議員も含めた市で働く全ての方の給与がカットされたからといっても、私たちの税金が安くなるわけでも、還付されるわけではなく、別の用途に回されるからです。
以前にも『「手段」と「目的」を取り違えるな』という記事をアップしましたが、この給与カットについてももちろん、「手段」であって「目的」ではありません。
「給与」であれ、「建設事業費」であれ、私たちが支払った税金であるのに違いないわけで、大事なことは、どんな用途であっても、支払った税金が、きちんと適正に使われているかどうかということです。
「木を見て森を見ず」という言葉がありますが、給与カットを議論する際、給与カットそのものの是非を議論することはもちろん大事なことですが、それ以上に大事なことは、カットした分の使い道や使い方をどうするのか、適正に執行していくにはどういうことに気をつけていけばいいのか、克服すべき点は何なのかといったことについて、しっかりとした議論をしておく必要があるということです。


「給与として支払っても、どうせ適正な使われ方などされるはずがない」
「病院建設事業だから適正な使われ方がされるはず」
といった、このような根拠のない思い込みは非常に危険です。
念のため言っておきますが、私は、決して給与カットに反対しているわけではありません。
本当に、どうにもならない状況であるなら、そんなことを言っている場合ではないということぐらいは十分承知しています。
今回の継続審議の件に関しても、市長が職員組合と話し合いをし、双方が納得しさえすれば、これほど大層に騒ぎ立てるほどの問題ではないはずです。
単に市長としての交渉能力、説得させる力がないだけのことなのに、議会に責任を押し付けるなどもってのほかです。
そして何より、私は、給与カットそのものが許せないのではなく、問題の核心から目をそらし、その場限りの給与カットで三木市の将来を左右する大問題を先送りしようとする姑息で怠慢な姿勢が許せないのです。


繰り返しになりますが、
給与カットした分が、最終的に、どのような目的でどのような内容に使われるのか、そのことを一番に考えなければなりません。
なぜなら、市民目線から見れば、どちらの用途に使われる財源も私たちから支払われている税金に何ら変わりはないからです。


病院の問題に真正面から向き合うことなく、危機に陥った病院経営をそのまま維持していくために必要な財源を捻出する目的で給与カットを行ったところで、
抜本的な見直しをしないまま、いくら税金(財源)をそっちに回したところで、何の解決にもならないのです。
そのことを、私たち市民もそろそろ気づき、注視し、声をあげていく必要があるのではないでしょうか。
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by kkamoike | 2009-05-30 08:35 | 三木市政 | Comments(2)

今こそ私たちが立ち止まって考えなければならない時

今回の議会が開催される前、こんなことを思っていました。
それは、三木市政はじまって以来の「財政危機宣言」が発せられた後の新年度予算などを審議する議会だったからです。


この先どうなるのかは流動的ですが、現時点では、賛成と反対に意見が真っ二つにわかれていることは、ポジティブに考えれば、より深い議論ができる良い機会だといえるのかもしれません。
しかし、いくらポジティブに考えたくても、お互いが議論のテーブルにつかなければ(つけなければ)、何の意味もありません。
無意味な混乱を引き起こすだけで、そのしわ寄せは、結局、市民のところに降り懸かってくるだけなのだと思います。


一方で、三木市独自の財政危機問題、さらには、百年に一度といわれている世界経済危機の波が容赦なく押し寄せている状況の中で、市が推し進めていかなければならない改革は待ったなしのはずです。
にもかかわらず、この期に及んで、改革の足並みが乱れ、あるいは温度差があまりにも違うというのは、三木市の将来を考えた時、非常に大きなマイナスです。
本来であれば、この難局を市長、議員を含めた市全体が一丸となって、そして三木市民も巻き込んで乗り切っていかなければならないはずなのに、改革の軸足がブレてしまい、大きく揺らいでしまうようでは、今の世代だけでなく、将来の子や孫の世代にまで大きな代償を背負わせてしまうことになってしまいます。


そうならないためにも、今を生きる私たちが、どれだけ目先のことだけにとらわれずに、大局的な観点から物事を判断できるかが求められているのだと思います。
「どうせ、今の市長が嫌いだから反対しているんだろう」というような低次元の憶測でしか物事を判断できない政治家や市民は、「市民生活を守るため」などといった方便を口にしたり、わかったような口ぶりで政治に口出しする資格はないと思います。
それぞれが、自分たちの殻に閉じこもったまま、この問題をうやむやにやり過ごすのではなく、正面きって、正々堂々と、三木市の将来のための本当の改革を真剣に考えていく時ではないのかと思うのです。
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by kkamoike | 2009-03-19 22:14 | みっきぃふるさとふれあい公園 | Comments(0)

100日と2920日

オバマ米大統領の就任演説の評価が世界中を駆け巡っています。
オバマ政権、100日勝負 経済·テロ、のしかかる重圧(毎日新聞)
(抜粋)
1930年代の大恐慌時に就任し、「最初の100日」という目標設定をしたフランクリン·ルーズベルト大統領は、大規模雇用を生む公共投資を中心としたニューディール政策の関連法案を矢継ぎ早に成立させ、政権運営を軌道に乗せた。大恐慌と比較される経済危機の中で政権をスタートさせるオバマ氏にも「100日」の重圧がのしかかる。


「100日」とは、ハネムーン(大統領のハネムーンとして、大目にみてやるぞとする期間100日)のことを指しているそうです。
困難な局面を打開するには、ダラダラやっていては、話にならないということでしょう。
あるいは、100日で目処がつかないようなものは、何年かかっても一緒だということなのでしょう。
厳しいようですが、それが現実なのです。
野球やサッカーなどのチームの監督が成績不振で簡単に首を切られるように、勝負の世界は結果が全てです。
政治も同じです。期待が持てないと判断された段階で、支持率は急落し、場合によっては、退陣を迫られることになります。
「一刻の猶予も許されない」というのが、政治の本来の姿なのだと思います。
「あと何年先には···」とか、「あと4~5年我慢すれば···」というような悠長なことを言っている場合ではないのです。


私は、政治は、常に、今、目の前にいる国民や市民、将来の国民や市民に、同じように平等でなければならないと考えています。
将来のことも考えた「改革」を、今、しなければなりません。
今の人たちだけが我慢したり、ある一定期間の人たちだけが我慢したりするのは、あってはならないことだと思っています。
今の人たちを説得するのは困難なことかもしれません。一部の人たちからはブーイングが起こるかもしれません。しかし、そのような改革を将来にわたり、断行することが、正しいことであるなら、その説明をきちんと果たし、今の人たちを納得させる責任が政治にはあるのだと思います。


冒頭にあげた100日勝負。
翻って、三木市の財政問題ですが、こちらは、100日勝負どころか、トータル4年(1460日)×2期=2920日の勝負を挑んでいかれる雰囲気のようです。
これが、全国初の「財政危機宣言」に対しての意気込みということになるのでしょうか。
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by kkamoike | 2009-01-21 19:04 | 三木市政 | Comments(0)

政治はいつの時代も「正念場」

オンブズマン三木さんの記事に、「市長にとっての正念場の年」と書かれてありましたが、私も同じ気持ちです。
皮肉でも何でもなく、全国初の財政危機宣言を発したからには、他の首長さん以上に、死に物狂いで取り組み、目に見える形で成果をあげていただかなければなりません。
他の自治体以上に待ったなしの状況なのですから。


しかし、そのような期待とは裏腹に、前回前々回の2回の記事から見えてきたものは、「改革」を断行するため、政治生命を賭けて取り組むという意気込みというよりも、どこか他人任せで、本質には触れず、問題を先送りしているようにしか見られない考え方や姿勢であり、これは非常に残念でなりません。
根本的な改革をする必要もないのに、あるいは必要があるのにする気がない状況で、4、5年の間だけ、不必要な「辛抱」を押し付けるのは最悪です。
また、根本的な解決を先送りにして、今、取り組まなければならない改革に着手しないのも最悪です。


4、5年先には明るい見通しがつくといっても、そう思っているのは、市長だけで、何の保証もないわけです。
現に、4、5年前に今の市民病院がこのような状況になることや、経済情勢がこれほど混乱に陥るなどということは誰も予想していなかったことで、今後、4~5年先には新たな予想もしない事態に直面する可能性だってあるわけです。


将来の子供や孫たちの世代のため、仮にどのような状況に直面しようとも、ある程度の安定した持続が可能なシステムをつくり出すこと、そのための改革に取り組むことこそが、政治の本来の役割であるはずです。
政治というのは、いつの時代も、常に正念場の連続だということを、心して取り組むべきものなのです。
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by kkamoike | 2009-01-12 10:41 | 三木市政 | Comments(0)