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どうぶつのつぶや記

タグ:まちづくり ( 7 ) タグの人気記事

「玄関づくり」は「顔づくり」

前回に引き続き、広報2月号の特集からです。
東の玄関と定義された「吉川」に引き続き、今度は、「別所」を西の玄関として整備していくという構想案が提示されています。
単純に考えて、「東」→「西」ときたら、次は「南」と「北」も玄関構想を考えられるのでしょうか?
しかし、一般的な家の場合、「玄関」は二世帯住宅でもない限り、1箇所しかありません。
「言葉尻をとらえるのはやめようよ・・・」と非難されるかもしれませんが、言葉を正しく使うことは、やはり大事だと思います。
特に公の場においては・・・


三木市を訪れる人たちは、車や電車、あるいは自転車、徒歩などの方法で、様々なルートから来られるでしょうが、それぞれのルートが「市に通じる道」という認識はあっても、「玄関」という意識は、おそらく持たれないと思います。
あえて「玄関」という言い方が馴染むとすれば、市役所への最寄駅と市役所や公共施設などが立ち並ぶシビック・ゾーンあたりでしょうか?
神戸なら市役所のある三宮駅界隈とか?


「市の玄関づくり」と「それぞれの地域の特色を活かしたまちづくり」とは根本的に違う気がします。
今回示された構想案は、「別所地域のまちおこしに向けた提案」であったとしても、「市の玄関づくり」という次元のものではない気がします。
「市の玄関(=顔)づくり」とは、もっと高い見地から市全体を見渡し、市のシンボルとなり得るものを考え、創り出すことではないのか・・・
少なくとも「各地域の特色を生かした顔づくり」とは違うと思います。


漠然とした表現しかできませんが、私は何となくそう感じています。
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by kkamoike | 2009-02-02 20:41 | Comments(3)

誰のための市政かをそろそろ真剣に考える時期ではないか

共産党のくろしま議員のブログに、「ものの言える人」という記事がアップされていました。
記事の内容は、簡単に言うと、市長にはっきりものが言える人を置くべきではないのか。すなわち、副市長人事を行うべきではないのかということでしたが、私のブログでも過去に、この副市長人事の必要性を訴えてきました。
当たり前のことですが、「ものが言える人」が必要ではないかと感じておられるということは、「ものが言える人」がいないということです。
もしそうだとしたら、市が打ち出す政策のほとんどは、市長の独断で決められているということにもなります。


くろしま議員のブログで、もう一つ、気になる記事がありました。
それは、「広野幼稚園での複数年保育について」です。
この問題も、過去に私のブログで取り上げた経緯がありますが、確か、もともと言い出したのは市長だったはずです。
くろしま議員のブログでは、今回、建前上、教育委員会自らが人数枠の設定を高く設けたために実現できなかった云々、と書かれていたわけですが、
「ものが言える人」の記事の実態が本当だとするなら、最終的に、市長の裁量でどうにでもできたのではなかったのかと思うわけです。
にもかかわらず、結果的に実現できなかったのは、市長に最初からきっちりとしたコンセプトがなかったからか、それとも、あらかじめ内部で十分な協議がされないまま、思いつきで発言してしまったかのどちらかになります。


まぁ、この期に及んで、誰のせいで、この案件が実現しなかったのかと突き詰めてみてもしょうがないわけです。
しかし、市民としては、こういうお粗末なやり方や、市民感情とかけ離れた対応、そして、同じ方向を向いているはずの議員の中からもブーイングが出てくるような状況が、これだけ目に付くと、何かいい対策を真剣に考えないといけないのではないかと思います。
市が行う合意形成、政策決定の段階で、本当に市民に必要なことは何なのかということが真剣に議論できるパートナー、もの言えるパートナーがやはりいると思います。
それは、副市長でもいいでしょうし、議会がその役割が担えるならそれでもいいでしょう。
いずれにしても、そのようなキーマンとなる人が、政策決定に関われる仕組みを、この際、考えるべきだと思うのです。
議会の役割として、市の政策決定にどこまで関与できるのか、勉強不足でわかりませんが、いずれにしても、どんな形でもいいので、早く、何かいい手立てを考えてもらいたいものです。


市長が好き勝手にやっていても、うまくいったり、あるいは、市民に喜ばれる結果になるのであればいいのですが、そうでないなら、今の現状をいつまでも、そのまま放置し、見て見ぬ振りをするのは、市民に対して、あまりにも無責任すぎる態度ではないかと感じます。
本来、市政は、誰のために行われるものなのか、そのことを真剣に考えている人が、この市の中枢に一体どれだけおられるのか···
この市はこの先本当に大丈夫なのか、真面目に考えれば考えるほど、馬鹿らしくなってきたりもします。
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by kkamoike | 2009-01-15 21:17 | 三木市政 | Comments(0)

まちづくりの分岐点

神戸新聞に掲載されていた記事を抜粋して引用します。

厚生労働省の国立社会保障・人口問題研究所は24日、2005年と比べ30年後の35年に人口が減少する市区町村は約92%に達するとの推計を発表した。65歳以上の人口が4割以上を占める自治体の割合が約42%に増加し、65歳以上が過半数の「限界集落」同様の状態となるところも約7%に達するという
(中略)
人口が減少する自治体は全体の91・9%に上り、うち20%以上減少が64・0%に達した。大都市圏やベッドタウンを除くほとんどの自治体が減少傾向。人口が5000人未満の自治体は05年の12・6%から、35年には20・4%になる見込み。
年齢別推計では、65歳以上の人口が4割以上を占める自治体の割合が、2・8%から41・7%に増加。65歳以上が過半数の限界集落状態となる自治体も132(7・3%)あった。逆に14歳以下の人口が40%以上減少する自治体は、74・3%に上る。



この記事によると、日本の国、ほとんどの地方自治体は、確実に人口減少へと進んでいくようです。
一方、65歳以上の人口の割合はこれからもどんどん増え続けていきます。


これからのまちづくりは、これまでの拡大路線、ハコモノ建設ラッシュから、いかにしてコンパクトシティをめざし、効率良く施設などを縮小、再編していけるかということが求められてくるということでしょうか。


今後の人口推移をどう予測し、どのようなまちづくりをすすめていくのか、30年先を見越したまちづくりのコンセプトを今から打ち出し、方向転換を図っていっても決して時期尚早ではないように感じます。


当然、そこには、ハコモノ行政よりも、まちづくりを担うマンパワーの存在、意欲、活躍が欠かせません。そういうマンパワーを育てる風土づくりや仕組みづくりにより重点を置くことが大切なのだと思います。
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by kkamoike | 2008-12-24 22:15 | みっきぃふるさとふれあい公園 | Comments(4)

樋渡イズムから学ぶべきこと

前☆武雄市長物語に、樋渡さんのまちづくりに対する考え方が書かれあります。
その奥深さに圧倒されると同時に、人々に夢と希望を与える内容に、三木市に住む人間として、うらやましさを感じました。


先日の雑感日記でもそのことが取り上げられていましたが、rfuruyaさん曰く、その様なうらやましい気持ちにさせる根底にあるものは、物事に対応するときの、その人の誠意や態度(スタンス)の違いだとおっしゃっておられます。
同じような苦しい状況におかれても、発展的に物事を考え、さらに前へ前へ、創造的に取り組んでいくスタンスと、物事を悲観的に捉え、脅迫ともとれる謳い文句で危機感を煽り、我慢ばかりを強要しようとするスタンスとでは、それを肌で感じる住民の気持ち(モチベーション)がどれ程違うのかは想像に難くありません。


そんな中、さるとるさんが高校の生徒たちに伝えた言葉(樋渡イズム)が印象的でした。
〝自分たちの住んでいるまちに誇りを持つことができるようになるためには、外から評価されることが一番。外から評価されるには、まずは、知っていただく努力をすることが最優先事項。〟

誰だって自分の住むまちの悪い部分ばかりを強調されたくはありません。
たとえ、将来、財政危機に陥る可能性があったとしても、「宣言」をしてまで三木の悪い評価を全国に知らしめる必要がどこにあるのでしょうか。


マイナスの思考からは、不安な気持ちやマイナスの行動しか生まれません。
この世の中ですから、どこの自治体にもマイナス要素の一つや二つはあるでしょう。
しかし、三木市の将来を担う子どもたちや三木市に住む全ての人たちが、少しでも夢と希望が持てる三木市を全国に発信していこうとする取組こそが、三木市を元気にするただ一つの、最も有効な手段であると確信します。
そして、それこそが、現在の薮本市政に求められる最重要課題なのではないかと感じています。
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by kkamoike | 2008-12-22 23:32 | みっきぃふるさとふれあい公園 | Comments(2)

病院統合だけの問題として考えていいのだろうか?

私は、基本的に三木市のような規模の自治体が、まして単独で病院経営をする時代ではないというのが基本的なスタンスとしてあります。
中途半端な病院の規模や経営形態であるなら、やらないほうがましだと考えています。民間に任せればいいと思っています。過疎地域にある公立病院ならそういうわけにも行かないでしょうが、幸い三木市は民間に任せられる土壌が整っていると思っています。
したがって、今回の「財政危機宣言」で述べられていたように、「三木市全体の将来を守るか」、「今の市民病院を維持していくか」という選択を迫られれば、私は迷うことなく、三木には、現在のような状態の市民病院なら維持する必要ないという方向を支持します。

今回、小野市民病院との統合に向けた協議が始まるということで、実現すれば、財政負担の割合は(三木市が多くなるのか、小野市と折半になるかはわかりませんが、)少なくとも、今よりは少ないお金で病院経営を行うことができ、なおかつ、高度な医療が提供できるようになるということは間違いないでしょう。
また、総合病院とはいうものの、一つのローカル病院にすぎなかったものから、広域拠点の病院となり、名実ともに総合病院へと格も上がるでしょう。
当然、これらのメリットは小野市も同じです。

ただ、そのような素晴らしい病院ができたとしても、果たして、どれだけの市民ができてよかった、ありがたいと感じ、利用するかを考えたとき、非常に悩ましい部分があるのも事実です。
前回の記事にも書きましたが、本当にどれだけの三木市民が実際に新しい病院を利用すると見込んでおられるのでしょうか。
市民の多くが、今までの行動パターンや生活圏などの違いにより、新しい病院ができても利用しないのであれば、誰のための病院かわかりません。
そうなると、三木市は(市としての?市長としての?)ステータスを守るために病院統合に賛同したということにもなりかねないわけですが、新しい病院ができた後には、一般の人たちからは、「小野市には立派な総合病院がある」というぐらいの認識しか持たれないということも十分頭に入れておかなければなりません。

私自身も、今回の件については、「病院問題」にのみ焦点をあてて意見を述べてきたわけですが、「木を見て森を見ず」ではありませんが、果たして、本当にそれだけでいいのかという疑問が今になって湧いてきました。
今回の問題は「市町村合併」にも勝るとも劣らない非常に大きな問題であるともいえるのではないでしょうか。
とりわけ長期的な展望から見た場合、地域経済の活性化、あるいは空洞化の問題だけでなく、将来、いずれやってくる新たな合併後のまちづくりの拠点選びや、イニシアチブを握る力関係にも大きく影響を及ぼす問題だとすれば、結論を出し急ぐのではなく、現在の病院経営のあり方の見直しとは別の次元で考えるべき問題なのかもしれません。
恐らく、小野市長さんはそのあたりのことをきっちり分けて考えておられるのだと思います。
すべて小野市長さんのシナリオどおりに事が進んでいるのかもしれません。
なぜなら三木市と違って現在の病院経営はそれほど切羽詰まった状態ではないからです。
そして、今回の件で小野市が動いたのも、それまでの小野市の駆け引きが功を奏したのかどうかはわかりませんが、三木市のほうから自主的に歩み寄ったからだと思うのです。

今後、三木市では各地域で住民に対する説明会が開かれるとのことですが、小野市との合意の前に、議会や市民との間で、もっと大きな観点からの議論や検討がなされ、住民投票などの方法で民意を問うプロセスがあってもよかったのではないかと思っています。そのような意味で非常に残念でなりません。
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by kkamoike | 2008-11-09 12:30 | 三木市政 | Comments(0)

政治家の言葉

先日、ある都道府県知事選挙の当選者が当選を果たした直後の所信表明のようなものをテレビのインタビューの中で述べておられました。
その内容は、ここで紹介するほどのものではない、極めて当たり障りのない、ありきたりの言葉でした。
「それができんねやったら誰も苦労はせえへんわ!」と思わずテレビに向かって突っ込んでしまうほどの内容でした。


たまたま前回の記事のコメント欄に山田錦さんから、綺麗上手な言葉に騙されない、それを見抜く目を有権者が持ち、客観的に評価や審判ができる制度が必要ではないかという意見をいただきましたが、今、思えばまさに、そのような目を持つ必要性を感じるテレビのインタビューでした。


財政難、人口減少、地域経済を取り巻く数々の問題、行財政改革への取り組みなど、全国のほとんどの自治体が抱える共通の課題をわざわざ取り上げ、全力で取り組みますと言ったところで、そのような姿勢で臨むことは、もはや当たり前のことなのです。いわば「時代の要請」でもあるわけですから、逆に言えば、そのような姿勢で取り組めない者は選挙に立候補する資格さえないと思っています。


今の政治家に求められていること、それは、暗い話題ばかりが先行する世の中だからこそ、自分の住むまちの特色をどのように活かし、どんな風にまち全体を盛り上げていくのかという部分を、もっともっと前面に出さなければならないのだと思います。
他の自治体にはない魅力を探り、それを活かすことで、将来、どのようなまちを目指したいのか。
そのことによってまちはどう変化し、そこに住む人達にどのような影響をもたらすのか。
そのような一歩も二歩も踏み込んだ内容で有権者の気持ちを掴み、勇気づける言葉を自分の言葉で語りかけられる政治家でなければならないと思うのです。




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by kkamoike | 2008-10-25 06:44 | マニフェスト | Comments(0)

校庭の芝生化

先日の続きです。
川淵三郎元Jリーグチェアマンの話の中に、もう一つ興味深い話がありました。
それが、今日のタイトルの「校庭の芝生化」です。


「スポーツ文化」を根付かせるお話の中でおっしゃったのですが、「校庭の芝生化」と聞いて、私が感じたのは、芝生を植えるのはいいけれども、学校側で維持管理するのは大変だろうし、予算面から考えても大変なのだから、結局は企画倒れになるんじゃないのかということです。


しかし、川淵さんから出た言葉は私にとって意外なものでした。

芝生になれば、そこで滑り込んだり、寝転んだり、はしゃいだり、緑化にもなり、みんなに癒しを与えてくれる。
何より、子どもたちに身近に芝生の上で遊んだりスポーツをしたりできる素晴らしい環境が整う。
そうすれば、子どもたちや学校関係者だけでなく、親や地域の人たち、みんなが芝生の素晴らしさが実感できて、芝生がもたらす生活の豊かさもみんなが実感できるようになる。
その結果、みんなで芝生を大事にしよう、自分たちの芝生を守ろうという意識が生まれ、自分たちの手で、大切にしようということになる。
芝生のありがたさが分からない学校では、自分たちの手で芝生を守るという意識は生まれない。
そのようなところでは、結局、「スポーツ文化」も根付かせることはできない。···

確かこのようなお話をされていたと思います。


なるほど、本当の意味での「スポーツ文化」を育む環境づくりというのは、誰かが維持してくれるという受身の意識ではなく、自分たちの手で環境を維持していこうという自主的な意識を持つことから生まれるものだとあらためて気づかされました。


当たり前のことといえばあたりまえのことなのですが、いつの間にか、私たちは何かにつけて与えられた環境を維持してもらうことも当たり前だと感じてしまっているのかもしれません。
与えれた素晴らしい環境を、自分たちの財産と受け止め、後世に残すも残さないのも、自分たちの意識の持ち方次第ということでしょうか。

「校庭を芝生化する」ことが目的になってしまうと、本来の目的を見失ってしまうということですね。
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by kkamoike | 2008-10-21 21:12 | みっきぃふるさとふれあい公園 | Comments(4)

R175が見て、聞いて、読んで感じたことを書き綴ります。
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