どうぶつのつぶや記

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官僚支配

昨日に続き、民主党ネタです。
特にどの政党に肩入れしているわけではありません。
あえていうなら、民主党政権の誕生が現実味を帯びてきている状況だからこそ取り上げておきたい問題、そんなところでしょうか。


さて、今回は民主党がいう「官僚支配」についてです。
民主党の主張は、「官僚支配」こそが諸悪の根源であり、「自民党では官僚主導の政治から抜け出せない」というものです。
つまり、「官僚」こそが主犯であり、自民党は従犯に過ぎないというふうにも受け取れます。
しかし、私が思うに、民主党が糾弾する「腐敗政治」は、官僚たちが好き勝手にやった結果でもたらされたものというよりは、
むしろ自民党政治が結果的にそういう状況を作り出してしまったというほうが適切な表現ではないかと思うわけです。
例えば、かつて抵抗勢力と呼ばれた穏健派の議員や官僚達の反対を押し切って進められた小泉改革、さらには、政界と財界との癒着とそれによる無法の状況からもたらされた今の惨状があると私などは認識いるのですが、民主党はあくまで「官僚が主導権を握っていること」が問題であるといっているわけです。


仮に、官僚主導が本当の事実であったとしても、それ自体、何がいけないというのでしょうか?
法案や政策を決定したのが誰かということが問題視されているようですが、自分たちの生活を考えるなら「誰が」きめたかといことよりも、「何を」決めたかが重要になるはずです。
それが良い法案であるなら、たとえ官僚が主導したことであっても良い法案なわけですし、それがダメな政策であれば、たとえ政治家(民主党)の定めた政策であっても喜ばれるはずはありません。
行政と官僚で意見の分かれることも当然あるでしょうが、それはあくまで結果であって、それ自体が目的となるものではないはずです。


政策の是非を論じることよりも、その政策が有権者の支持を得ているかどうかに力点を置く政治が幅をきかしている昨今、ともすれば「有権者の支持を得ている」という後ろ盾を武器に、良識派の議員や職員、官僚らが異議を唱えようものなら、「民意に背く」抵抗勢力のレッテルを貼る暴挙が平然と認められてしまう恐ろしい状況です。
敵や味方という関係ではなくて、政治家と官僚がそれぞれの役割を再認識し、将来に向けた理想の国家像の実現に向けて共に汗を流す、そんな当たり前の信頼関係が築ける政治であってほしいものです。


産経新聞にこんなコラムが掲載されていました。
【論説委員「私の1冊」】河合雅司 城山三郎「官僚たちの夏」
『···世界一流の工業国に追いつけ追い越せという明確な目標のあったこの時代の官僚たちには「国家の将来を背負っている」という強烈な自負もあった。将来に向けた国家目標を描ききれずに悩む現代の官僚との違いが見て取れる。
民主党は政府に100人以上の議員を送り込み「政治家主導を確立する」考えを明らかにしている。選挙結果によっては、官僚組織は大きく変わるかもしれない。だが官僚たちも生身の人間だ。彼らが大きな使命感を持って仕事に打ち込めるような国家ビジョンを描くことこそ、政治に求められていると痛感する。』

まったくのそのとおりだと思います。
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by kkamoike | 2009-07-31 21:26 | マニフェスト

無駄とは何か

無駄排除で財源捻出=民主代表

民主党の鳩山由紀夫代表は20日、神奈川県相模原市で街頭演説し、同党の政策は財源面の裏付けが不明確と与党が批判していることについて「自民党政権が続いているからお金が足りなくなる。官僚にコントロールされて、みんな大事な予算だと思わされてしまっているからだ」と述べ、歳出の無駄を徹底的に排除することで財源捻出(ねんしゅつ)は可能と反論した。
鳩山氏は「官僚任せの政治ではなく、優先順位の高い政策から世に出す。そんな世の中をつくるために大きな手術が必要だ」と述べ、衆院選での政権交代に向けて支持を訴えた。(時事ドットコム 2009/07/20-19:18)



民主党は、「政策には財源面の裏付けが不明確だ」との与党からの批判に対して、
「歳出の無駄を徹底的に排除することで財源捻出は可能」と反論しているようですが···。


それにしても「無駄」とは何なのでしょうか。
「行財政には無駄がある」ということばかりが強調されがちな世の中にあって、そのような風潮に便乗しただけのものだとすれば、それによってもたさられる行政のあり方に不安と疑念を持たざるを得ません。
その一方で、 鳩山代表は「優先順位の高い政策から世に出す」とおっしゃっておられますが、それらの政策を実現していく上で、「民主党が廃除しようとしている『無駄』は本当に無駄なものなのか」を問うことが忘れられてしまうとすれば、小泉改革の繰り返しにしかなり得ないでしょう。
国の役割、政治の役割が頭ごなしに否定されがちな昨今、ともすれば所得の再分配や社会保障、教育などの分野は切り捨てられがちです。
行政が本来行わなければならない社会保障などのきめ細かいセーフティーネットの構築や、採算の合わないため民間は手が出せないがどうしても必要な分野への投資などがどんどん手薄になってしまわないかと心配します。
無駄を無くすという大義名分のもと、国民の理解が得られない、いわゆる偏見を持たれている領域を容赦なく切り捨ることで、世論の受け狙いや自分たちへの支持を目論む計算なのかもしれません。
どこかの自治体と同じですね。


社会保障受給者が不正な受益者のように扱われる社会では社会保障が「無駄」とされ、
公務員がとんでもない高給取りの怠け者であるかのように伝えられている社会では公共サービスの担い手が「無駄」とされるという訳です。
そしてテレビに顔を出さない政治家は何もやっていないかのように思いこまれている社会では国会議員もまた無駄。
国民の多数派からは理解されなくとも、必要な部分をしっかりと守れる政治、国民の人気取りだけに終始するのではなく、国民に対して確固たるビジョンを示し、国民をリードする政治を目指して欲しいものです。


ちなみに、この方はこんなふうに言っておられます。
やはり言葉の一つ一つに説得力がありますね。
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by kkamoike | 2009-07-30 19:01 | マニフェスト

コンセプトを見失った市政運営

花火大会が休止に至ったのは、寂しい限りです。
やまかずさんのブログには、
花火大会の休止は、「日本一美しいまち」というコンセプトに反する決定に値すると指摘されていますが、私もまったくその通りだと思います。


市が関わる行事やイベントの中でも、「花火大会」ほど、子供からお年寄りまで幅広い世代から楽しみにされている行事は他にないのではないでしょうか。
家族や親戚と一緒に、友達同士で、恋人同士で、会社の同僚同士で···
花火の打ち上げだけにとどまらず、そこには、普段なかなか取りたくても取れない、ふれあいや交流が生まれる楽しさや喜びがあるからこそ、みんなが楽しみにしている行事の一つにあげられるのかもしれません。
そして、子供たちのはしゃぐ声、夏の夜の一時をのんびりみんなと一緒に過ごす贅沢···
そう、花火大会を通して生まれる効果は、まさに「日本一美しいまち」や「スローライフなまちづくり」という、今の総合計画にも謳われているスローガン、コンセプトに沿ったものであると思いますし、間違いなく三木や吉川を代表する夏の風物詩だと私は思うのです。
そういう意味でも、今回の休止は非常に残念でなりません。
花火大会が、単に財政難だから大会経費を節減するために休止を決定したというのであれば、あまりにも短絡的な考えなのではないかと思うわけです。
(そうでないと思いたいのですが、理由は「財政危機」に伴い···としか書かれていない)


私は、物事には良い面と悪い面、それぞれが背中合わせに同居しているということを頭に入れて判断することが大事だと思うのです。
経費を要するというマイナス面と、冒頭で述べたような、市民に楽しんでもらい明日への糧にしてもらったり、市民同士、三木市以外の人たちのとの交流を活発化させる効果があったり、三木市全体に観光客を呼び込み少しでも三木市にお金を落としてもらい、地域経済の活気を取り戻す効果があったりするなどのプラス面の両方を考慮した上での判断なのかどうか、そのあたりの検討が十分になされたのかどうか非常に気になります。


「財政危機宣言」を発したことに伴い、聖域なき歳出経費の見直しという強い想いがあるのはわからないではないですが、経費節減だけにとどまらず、様々な効果も見捨ててしまうことになってしまう可能性もあるということを十分に考える必要があるのではないでしょうか。
三木の政治家さんたちには、何でもかんでも無駄だからと一緒くたにするのではなく、このような柔軟な考えも是非持っていただき、子どもたちから夢を奪わない、血の通った、心のこもった政策判断をしていただきたいものです。
こういう判断を目の当たりにするにつけ、ますます、『私たちの税金をもっと有効に、大事に、よく考えて使ってくださいよ!』という想いが生まれてくるんですよね。


そんな中、住民たちの手で夏のふれあいまつりを盛り上げようという動きが広がっているということは、せめてもの救いですね。
この手作りのイベントが成功することを心から祈っています。応援します!
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by kkamoike | 2009-07-25 18:21 | 三木市政

「戦う組織」の作り方

「戦う組織」の作り方
は、ワタミ(株)の創業者 渡邉美樹氏の著書です。
かなり、おすすめです。


「ワタミ」といえば実力主義の厳しい会社であるというイメージが世間一般に持たれています。
この本にも頻繁に出てくる『実力主義』や『戦う組織』というような言葉を聞いただけでも、お金をもうけてくる人や仕事を取ってくる人により高い給料を与え稼げる人を重視し、そうでない人を格下の存在として扱うようなイメージに陥りがちで、そのような経営手法の上に今の組織の繁栄が成り立っているのではという先入観がありました。


しかし、渡邉氏が実践されている「実力主義」とはそういうものではなくて、一つの理念、すなわちワタミの場合なら、「地球上で一番たくさんのありがとうを集めるグループになろう」という理念に基づき、誰がどの仕事をしたら一番いいかということを冷静に考え、役割分担することだそうです。
その結果として、年功序列に関係なく社員を抜擢することもあれば、降格ということもあるけれども、それはあくまで「適材適所」ということであり、社員の扱いに差をつけるということでも「人を見限る」ということでもないと渡邉氏は断言されています。


また、渡邉氏の考え方の根底には、常に「人は経営資源ではない」という意識があるとおっしゃいます。
「モノ」「カネ」「情報」は経営資源だから、売上を伸ばしたり利益を上げるために、買ったり売ったり、捨てたり拾ったりしてもいい。
しかし、人は経営資源ではなく、会社そのものである。したがって売上や利益を確保するための手段として、買ったり売ったり、捨てたり拾ったりするものではないと···。


人を大事に、一番に考え、その人の持つ能力を最大限生かせる場所を考え、チャンスの機会や場所を与え続けることこそが、リーダーの務めであり、夢や愛情を部下に対し惜しみなく注ぐことができ、厳しくも公正なリーダーこそが「戦う組織」を作り上げていけるのだという渡邉氏の組織論には大いに感銘を受けました。
いずれにしても、現代のアメリカ型の株主重視経営の考え方とは正反対の考え方、ある意味、今となっては多くの企業が岐路に立たされている経営手法とは明らかに差別化された「経営が苦しいときでも出来る限り従業員の雇用は守る」という旧来からの日本的経営を実践しているワタミの取組は注目に値するものだといえます。
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by kkamoike | 2009-07-24 20:55 | マネジメント

三木再生の灯

ボランティアをはじめとした地域活動。
そのような地域をよくしようという一人ひとりの思いや活動が、地域を支え、私たちの暮らしを支えています。
同時に生活にうるおいや地域の連帯感を生みだしているのだと思います。



ひとつひとつの政策や計画は行政によって策定されますが、すべての政策は、市民の生活と密接に結び付いています。
政治は行政という切り口を中心に捉えられがちですが、本来、中心にあるべきなのは、やはり、市民であり国民です。
市民や国民が主体的に活動しなければ良い政治も行政も生まれないのではないでしょうか。
つまり、地域や社会をより活発に、豊かにしていくためには、私たちの一人一人が一歩進み出すことが必要不可欠です。



私たちは、ややもすれば、どんなサービスを受けられるのか、何を得られるのかと、ついつい受身の姿勢や待ちの体勢になりがちですが、そうではなくて、何をすることができるのかを考え、積極的に、精力的に活動することが、地域の活性化につながり、私たちの暮らし全体の向上につながっていくのだと思います。



そのような意味でも、今、三木市の至るところで、またそれぞれの地域で、住民たちの手による自主的な動きが出てきているのは、三木の再生への可能性を感じます。
当然、私も、自分の住む地域に少しでも恩返しをしていきたいと思っています。
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by kkamoike | 2009-07-15 21:16 | みっきぃふるさとふれあい公園

「人の持つ力」

モチベーションが高くなれば、
より「付加価値」の高いサービスが提供できるといわれています。
仮に、目標を実現するために必要なものがすべて揃っていたとしても、モチベーションという要素によって、その成果は大きく違ってきます。


「組織」は「人」によって成り立つものですから、一人一人がそれぞれの責任の下に与えられた役割を遂行することは当然のことです。
しかし、その「人」を、単なる「コスト」としてしか考えられないリーダーは、例えば、部下には自分の指示したどおりのことしか考えることを許さなかったり、部下の創造性を育む度量の広さがなかったり、要は、部下が自分たちで判断し、動くことを極端に嫌うことが多いといわれています。いわゆる「ワンマン」という言葉で表されるリーダーです。
この場合、リーダーシップが上手くとれていたり、組織がいい方向に動いている時は必ずしも部下たちのモチベーションが低くてもある程度はしのげるのでしょうが、舵取を一つ間違えれば全て悪い方向に転げ落ちてしまうことになりかねません。


一人一人の考え方を尊重することに対する責任だけでなく、部下を信頼して任せることによってもたらされる結果に対する責任を、部下と一緒に受け入れる覚悟を持ち合わせているリーダーのもとでは、必然的にモチベーションも高まるのではないかと思います。
そして、これ以外のモチベーションを高めるための重要な要素としては、組織を構成する人たちをどのようにして同じ方向(ベクトル)に向かせるかということ、そして一生懸命に取り組んでいる部下に対する目配りを怠ることなく、時には労いの言葉を、時にはやっていることに対する意義づけの言葉を、またある時には励ましの言葉をタイミングよくかけられる心くばりを、リーダー自身が持つこと、そして部下にもそのような意識を持たせることではないかと思います。
そうすることで、「人」は、
単なる、1人+1人=2人という足し算ではなくて、
1人+1人=∞(無限大)になる可能性を秘めた、
「最大の経営資源」にふさわしいものになっていくのだと思います。


簡単な言葉に言いかえるとすれば···
同じことをするにしても、
人に感動を与えるのも「人」次第、
人を落胆させるのも「人」次第
人に感謝されるのも「人」次第···
といったところでしょうか。


同じことをするにしても、「人」が持つモチベーションによって結果は違ってくるということです。
やっぱり、「人の持つ力」って素晴らしいですね。
そんな「人の持つ力」の素晴らしさを知り、その可能性を引き出せるリーダーがいる組織なら、そこで働く人達も、そしてそこからサービスを受ける人達も、みんなが幸せな気分や満足感を手に入れることができるはずです。
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by kkamoike | 2009-07-08 19:33 | みっきぃふるさとふれあい公園

私が感じる「パートナー」、そして人づくり

「協働のまちづくり」が言われだして随分久しくなります。
三木市でもこの4月から、公民館を中心としたまちづくりがスタートし、『市民パートナー制度』が6月議会で承認されています。
この手の取組を見るとき、いつも疑問に思うのは、仕組みを作らないと目標は実現しないものなのか、
わざわざ仕組みをつくり出さなくても勝手に動き出すものなのではないのかということです。
大事なのは、仕組みや体制をつくることではなく、
共通の目的を実現するためにそのような仕組みや体制がどういう部分で必要となってくるのか、
そして、必要となった場合には、それらをどのように使いこなしていくかということを第一に考える必要があるのではないかと思うのです。



加西市長は職員の方たちにこんなふうに語りかけておられます。
『加西市では、多くの地域団体や各種協議会の事務局を市職員が長年慣例的に担っており、職務の片手間では時代の変化に十分対応できていないように思います。年中行事や安定軌道に乗った事業については、ヤル気のある市民グループなどに財源も付けて運営を任せることが肝要です。
元気な自治体に共通するのは、市民参画が進んでいることです。職員の皆さんには、プロ意識を持って、加西市の5年先10年先を見越して、公務員でなければできない重要な仕事、付加価値の高い仕事をしてください。』



行政が市民の気持ちに寄り添った姿勢で仕事を考えることももちろん大切でしょうが、市民に寄り添ってばかりいても協働は前には進まないと思います。
決して「大上段に構える」という意味ではなくて、行政マンはまちづくりのプロとして、市民とは別のスタンスからまちづくりを考え市民をリードていく(決して偉そうな意味ではなく、自信を持って行動する)、そんな姿勢や能力が求められているのではないでしょうか。
当然、市民の側にもそれなりの意識や姿勢というものが求められてきます。
そして、今の時代背景や、求められる市民像や職員像についていくら理想の言葉や理屈ばかりを語ったとしても、職員も市民もなかなか思うようには育たないのではないでしょうか。
ある意味、机上の空論だけではなく、トップが日頃の行動でどれだけ現実的なものとして目に見える形で表現できるかということも、「人を育てる」という観点から重要になってくるのだと思います。



そんな中、この人の考え方や行動はいつもシンプルでわかりやすいです。
こんな人が市のトップにいてくれたなら、トップの言動を目の当たりにした職員、そして市民は、それぞれの立場で今自分たちに出来ることは何なんなのかを自ら考え、行動に移し始めるのではないでしょうか。
『(武内町で語る会で)たくさんの質問が。
3年前の僕だったら、「こう考えます!」と即座に言ったと思いますが、この頃は、全国的に上手くいっている例を出して、皆さんと私たちで一緒に考えましょう、議論しましょう、という持って行き方をします。
煎じ詰まるところ、私が属する政治の目的の一つとして、市民の皆さんの所得の維持向上(→生活の維持)と税収の確保(→子育て·福祉等に充当)、そのための手段がいろんな政策です。政策は市民みなさんでわいわい議論しながら考えるのが一番。』




私が感じる『パートナー』は、もちろん全くの対等というわけではなくて、
それぞれが、それぞれに出来る役割を担うことで、同じ目標に突き進むということなのではないかと思っています。
決して同じ責任のもとにおいて事にあたるということにもあてはまらないのではないかと···。
そして、『パートナー』や『協働』について単に言葉だけで伝えるのではなく、
上に立つ者自らが、日頃からどんな考えのもとに、どんな態度や行動をとっているのかを体現することこそが、『人づくり』を行う上では欠かせない最も重要な要素、何よりのお手本ではないかと···
そう、まさに
『まず、隗より始めよ』ではないかと思います。

二人の市長の言葉からそんないろいろなことを感じました。
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by kkamoike | 2009-07-06 19:35 | みっきぃふるさとふれあい公園

「この程度の国民(市民)だからこの程度の政治家なのだ」といわれないために

姫路市長のブログ
「ポピュリズムに背を向けて 吉田茂」(北康利 著)という本のあとがき(抜粋)が紹介されていました。
私もこの文章は非常に示唆に富んでいる内容だと感じました。
同じ部分の引用ですが、当ブログでも、『心の留めておきたい言葉』のひとつとして残しておきたいと思います。


 ~略~
 数にまかせて力をふるおうとする世論は、かつての反民主主義勢力よりもはるかに暴力的でかつ強欲である。「自分たちが主役の政治」を欲しながら、同時にまた強力なリーダーシップを持った政治家を求めている。こうした贅沢で矛盾した要求を恥ずかしげもなく堂々とできるのが世論なのだ。
 国民の政治を見る目は極端に幼稚になり、「嫉妬」という人間の最も卑しい感情が社会を支配しつつある。
 議員の財産開示などという愚にもつかぬことが行われているが、国民はここからいったい何を読み取ろうとしているのか。浮いた話などなく、老朽化した官舎に住んで国会に電車で通う政治家が本当にこの国を幸せにしてくれるのか。重箱の隅をつついて政治家批判をする前に、国民は政策判断できる能力を身につけるべきだろう。かつて、福澤諭吉が語った、<この人民にしてこの国家あり>(この程度の国民だからこの程度の国なのだ)という言葉を、われわれは、もう一度噛み締めてみる必要がある。
 ~略~



『国家』はそのまま『政治家』にも置き換えられるということでしょうか。
···「この程度の国民(市民)だからこの程度の政治家なのだ」···
政治家だけに責任転換することは簡単ですが、我々も政治家の資質や能力を嘆く前に、
どれだけ政治家と向き合い、本物を見極める目を養えるかが問われているのだと思います。
選出される政治家のレベルも国民(市民)の意識次第でいかようにも変えることができるということを心しておかなければなりません。
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by kkamoike | 2009-07-01 21:06 | 心に留めておきたい言葉