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どうぶつのつぶや記

カテゴリ:三木市政( 127 )

市長の意気込みを聞いてみたい

選挙で箱物行政を厳しく批判していた人が
市長になって、たくさんの箱物に手をつけているようだ。

吉川支所と図書館分館の建て替えをはじめ、三障害施設、三木南地区の公民館の建設、瑞穂小学校の改築(改装)など···

そういえば、実現しなかったものの中にも、ふれあいセンター構想やマックスバリュ跡地構想などもあったと記憶している。

一方、先日、発表された県の行革案は県内の市町に大変厳しい内容となっているようだ。
私たちに身近な医療や福祉、子育て施策にも大きな影響を及ぼす可能性があるとのこと。

現在の市長が船出した時期から見ても、わずか数年で、自治体を取り巻く情勢は更に大きく変化してきている。

行革もはじめたばかり、箱物も建てたい、そんな状況の中での今回の県の行革···

あらためて市長の考えと意気込みを小野市長のように自分の言葉で市民に示す時期が来ているのではないか
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by kkamoike | 2007-11-22 23:37 | 三木市政 | Comments(5)

行革と市民協働

行革と市民協働がセットで述べられている。

私は、職員を削減して手が回らない部分を、市民協働などの形でフォローするものだと解釈している。

今まで、ある意味、行政に任せっぱなしだった市民の意識を変えるため、三木市においても様々な取り組みがされているようだ。

小泉内閣あたりから、「改革は痛みを伴うもの」というような言葉が、市民権を得たかのごとく独り歩きしている印象があるが、この「痛み」とは、一体、何を指しているのか。

多くの場合、相応の金銭的負担(税負担や保険料負担など)を指すと思っているのだが、「市民協働」もこの痛みに含まれると考える人はどれだけいるのだろう。

また、市民も「市民協働」という耳ざわりのいい言葉として好意的に捉えている人が多いようだが、「協働」として関わる以上、責任も伴うということを認識している人はどれくらいいるのだろうか。

「いっしょにまちづくりをしましょう。」
確かに必要なことで、大事なことだ。しかし、やる以上は、我々市民も、不平不満や文句ばかり言うのではなく、責任が伴うものであることを念頭に置いておく必要がある。

しかし、そのような意識を持つ以前の問題として、私が今一番腹立しく思っているのは、行政が「行革」と「市民協働」を全くの別物として切り離して説明しているような印象を受けることである。

表現を変えれば、行革は「ムチ」であり、市民協働は「アメ」であるかのごとく。

行革のアウトラインを明確にし、その空いた部分を市民協働という形で穴埋めするのか、アウトソーシング(民間委託など)で穴埋めするのかといったことなどの、市民への説明責任が全くといっていいほど果たせていないと感じるのである。

「市民協働」には責任が伴うということを認識してもらえないまま、「この部分は市民の皆さんにやってもらいます」というような具体的な内容も明らかにしないまま、委託契約を結ぶ際に行われている行為、例えば、交渉や説得、契約などといったものと同様の手続きを取らないまま、あいまいなまま放っておくと、いつまでたっても「市民協働」は実現しないと思う。

今のままだと、お互いの不信感だけが増長されるだけだろう。

行政は一刻も早く行革と市民協働のあり方や考え方を市民に丁寧に、わかりやすく、根気よく提示し続けていかなければならない。
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by kkamoike | 2007-11-21 12:14 | 三木市政 | Comments(0)

「行革」について

行財政改革、いわゆる「行革」が全国の自治体で取組まれている。

コストの削減の行き着く先は、民間の場合は利益につながっていくことが多いのだろうが、行政の場合は無駄を省くという側面は理解できても、そのことによって、必ずしも住民の利益につながる保障はない。


県の行革案に対して、県下の各市町の対応が新聞に取り上げられている。

市民サービスを後退させることのないように配慮願いたいというのが、多くの自治体の想いのようだ。



市民のための「行革」でなければならないはずなのに、結果的に市民にしわ寄せが回ってくるということは、どう考えても納得できない。


行革イコール市民の利益につながる···

確かに無駄なところは削ぎ落とす必要があるだろう。

しかし、数字上の、つじつまだけを合わせる「行革」になってしまっては、最終的には市民にそのツケが回ってくることもあることを、私たち市民も知っておかなければならない。


また、今、全国各地で取組まれている「行革」を、これまでのように行政任せにしてしまうと、いつの日かまた、「行革した結果」を受けた「行革」に取組まなければならない時代がくることも肝に銘じておかなければならない。

特に行政の場合、目先の利益に惑わされることなく、長期的なスパンで物事を考えなければならない部分もあるということを忘れてはならない。


地方の時代というのなら、多くの自治体がやっているから右に倣えでなく、その団体独自のメリハリのある、オリジナルな「行革」を目指してほしいものである。
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by kkamoike | 2007-11-20 13:15 | 三木市政 | Comments(1)

「お客様」と「いらっしゃいませ」

大西さんのブログの中で「行政マン」の記事が書かれてあった。
大西さんのおっしゃる通りだと思う。

私も、職員の方たちの対応という観点で以前から気になっていたことがあるのでここで述べたいと思う。

いつの頃からか、市役所で「お客様」とか、「いらっしゃいませ」というような言葉が聞かれるようになった。
役所に行くとそんな言葉を案内とかでかけられる。
市長のホームページにもそんな言葉が載っていたと思う。

それはそれで、職員の方の対応の意識や行動なども、以前よりは良くなったのかもしれないが、私個人としてはどうも違和感を覚える。

それは、私自身、市の「お客様」という認識がないからかもしれない。

確かに税金は支払っているが、税金を払うのは、国民の義務であるから払っているのである。そして、自分だけ(一部の者だけ)が享受するサービスに使途を限定して支払っているわけではない。
「お互いに助けあう精神」という言い方が正しいどうか分からないが、個人的にはそのような気持ちで支払っている。

そしてもっと極端な言い方をするなら、まちづくりの株主や出資者というイメージだろうか。でもまんざら間違いではないように思っている。

個別に自分が受けたいと思うサービスなどは使用料や個人負担として税金とは別に支払っているのである。

行政が、
市民と対等の立場で、パートナーシップで、協働と参画で···というのであれば、少なくとも「お客様」という言葉はおかしいと思うのだが。

ついでに、
「いらっしゃいませ」という言葉も、言葉尻をとって言うわけではないが、庁舎や市の施設は市民みんなのものであるはずだ。
市はあくまで管理を任されているだけだろう。
自分の家に入って、「いらっしゃいませ」はないんじゃないかと思うのだが。

大西さんのブログを見て、ちょっと感じたことを書いてみました。

PS
先日、図書館に行ったとき、職員の方が「いつもご利用いただきありがとうございます。図書館の○○です!」といった内容だったと思うのだが、元気な明るい声で電話応対されているのを見かけた。
こちらは、全く違和感もなく、端で聞いていてとてもいい気分になった。

臨機応変な対応をするのもプロフェッショナルとして求められる大事な要素である。
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by kkamoike | 2007-10-31 19:57 | 三木市政 | Comments(8)

タウンミーティングのこと

昨日はタウンミーティングがホースランドで開催されたようだ。
残念ながら地元の集会と重なり参加できなかったのだが、集会の後、たまたま近くのコンビニでタウンミーティングに参加した友人と出会い話しを聞くことができた。
参加者もそこそこで、いい意見もあってよかったということだったが、一点、首を傾げたくなるところがあったので今回はそのことを書きたいと思う。

それは、タウンミーティングにわざわざ出席していた職員を市長自ら帰らせたということだ。
市長の総括の中で述べたことのようなので間違いはないみたいだ。

帰らせた理由は、議会で職員の参加者を最小限にすると約束したからだそうだ。これからは参加者をできるだけ十人以下程度に抑えるとのこと。

私が疑問に思うのは、そんな縛り(人数を何人以下にする)を設ける必要がなぜあるのかということである。
議会とのやり取りを直接聞いているわけではないので、議会側の真意を掴むことはできないが、問題とするべきことは、職員の参加者数云々ではなく、組織としてタウンミーティングに臨む際の考え方ではないのかと思う。
必要以上の職員を動員させる、参加を強制させている風潮、組織の風土が問題なのだと思う。
さらに、職員の数が多いということよりも、参加する住民の数が少ないことのほうが問題なのだと思う。

行政が住民との参画と協働をこれからのまちづくりの核として位置付けるのなら、むしろ自主的に参加する職員は多ければ多いほど歓迎すべきことなのではないのか。
職員が参加するメリットは、今日のさるとるさんのブログを見れば一目瞭然である。
そういう芽を市長自ら摘む行為は住民と職員への裏切り行為ではないのだろうか。

また、実際に帰らされた職員があると聞いて、ここでも市長の都合で、職員がいいように利用させられているのだなと感じた。言葉は悪いが、職員を物扱い、私物化している印象すら感じた。

そこには、高い理念や信念に基づく言動とは思えない、議会との「視点を取り違えたやり取り」に翻弄する姿、自らを保身する醜い姿しか見えない。

誰のための、何を目的としたタウンミーティングなのだろうかと感じた。
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by kkamoike | 2007-10-28 11:30 | 三木市政 | Comments(3)

絵に描いた餅に終わらせるな

先日、通称やまかずさんのブログで三木市のタウンミーティングの話題が出ていた。
あわせて、そのブログに関するコメントがオンブズマン三木さんのブログでも展開されている。

私もタウンミーティングに参加したことがあるのだが、その時は非常に雰囲気が固かったという印象しか残っていない。

rfuruyaさんのおっしゃるとおり、やり方や体裁にとらわれすぎているのかもしれない。

重々しいという表現が一番相応しかったのかもしれない。

フランクな状況、ざっくばらんな状況をつくるには、お互いが心を開き、正直にならなければならない。

偶然にも、昨日紹介した「頭をよくする思考術」(著書:白取春彦)にこんなことが書いてあった。
フランクな、ざっくばらんな雰囲気を阻止してきた原因があるとするなら、
それは、双方、またはどちらか一方に、
恥をかきたきない気持ち
弱みを見せたくない強がり
様々な意味での保身
いつも相手より上に立ちたいという傲慢
相手からよく見られたいという虚飾
自分のくだらない自尊心
があるからだ。

自尊心は正義を行うときだけ必要なものであって、物事をわかりにくくするための障害にしてはならない。
(以上、本文より)
···

はたして主催者側にこの中に一つでもあてはまるものはなかったのか。

もしあるとするならそのような部分を取り除き、今一度原点に立ち戻る必要がある。

あるなしにかかわらず自ら省みる努力を怠れば、薮本市長のいう「現場主義」はまたしても「絵に描いた餅」に終わってしまうだろう。
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by kkamoike | 2007-10-18 12:37 | 三木市政 | Comments(0)

現場主義の鉄則

昨日、rfuruya1さんのブログで三木市長がブログを止めることを知った。オンブズマン三木さんのブログにもあげられている。

かなり以前から休止状態だったのでやはりという印象しかなかった。
市長のブログ中止の理由に膝を交えた現場主義とブログなどでやりとりされる理屈や理想論といった内容の対比があげられていた。
rfuruyaさんもこの点は納得がいかないとコメントされている。
そもそも生身の人間と接する現場とブログやメールなどの情報ツールでのやり取りとは次元の異なるもの(この表現が正しいかどうかわからないが)、少なくとも別個に考えるべきだと私は思う。

情報はどんどん新しく変化するものという頭が私たち現代人にはあるが、じつはそのときの状態のままで変化しないものである。
一方、生身の人間は常に変化する。例えば、同じ夜空をみるのでも、星座の知識、情報を知らなかった昨日までの自分と星座のことが解るようになった今日の自分とは明らかに違うはずである。人は常に変化しているということである。
養老孟司 著「養老先生と遊ぶ 13歳からのバカの壁」より

人と会ってみて、聞いていた感じの人ではなかったと気が付くことはよくあることで、この場合、聞いていた情報だけでは本当の姿や真実はつかむことはできない。
まさに百聞は一見にしかずである。
自分の目で確かめることは昔も今も変わらず大切なことだ。
一方で、今のこの情報化社会を生きる我々は、溢れんばかりの情報が行き交うなかで、ややもすると一瞬にしてさっきまで正しいと思っていた情報が正しい見方ではなくなることだって有り得るわけである。

そういう意味ではできるだけ多くの情報を効率的に収集し、自分のものとして行動や言動に活かすのもその人の能力といえる。

現場に入る前にあらゆる情報ツールを活用して情報を得ている自分と、そうでない自分とでは、心の余裕も違うだろうし、現場での対応も自ずと変わってくるということを肝に銘じておく必要がある。

「現場主義」の鉄則といえる。

さらに、私もrfuruyaさん同様、薮本市長の考える「現場」が何を指しているのかがわからない。市民にわかりやすく説明することは「現場主義」の基本中の基本であるはずなのだが。
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by kkamoike | 2007-10-03 08:03 | 三木市政 | Comments(0)

R175が見て、聞いて、読んで感じたことを書き綴ります。
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